「すみません、じゃあ、お先に失礼します」
片付けを終わて立ち上がると、編集長が書類と資料の山の間から、無精髭の濃い顔を覗かせた。瓶底眼鏡の下で、眠たげな目を瞬かせる。
「おう、木下はこれから夜間か」
「はい、すみません、この忙しいときに」
「構わねえよ、今のうちにしっかり勉強してこい。翻訳物の文庫を立ち上げるときには、お前を一番にこき使うから」
戦争が終って五年が過ぎた。
真弓は以前勤めていた出版社の先輩が立ち上げた新しい出版社で、戦後すぐに仕事を再開した。今年の春からは新しく出来た大学の夜間に通い始めて、三ヶ月が過ぎる。
学部は英文学だ。戦争が激しくなる前の一時期、近くに住んでいた宣教師に英語を教えてもらっていたのだが、戦局が悪化し、その人も母国に帰国してしまった。勉強が中途で途絶えてしまったのが、ずっと惜しかったのだ。
英語を習っていたことで、戦中は何かとで、戦中は何かと面倒な目に遭いもしたが、それも過ぎたこと。英語が敵性語と呼ばれて排斥運動が起こったのも過去のことだ。こうして堂々と英語が学べるようになったのが、今は嬉しい。 「あー、そうだそうだ、木下、ちょっと来い」
「はい?」
鞄を手に扉に向かおうとしていた真弓は、首を傾げながら戻る。編集長は、真弓を手招きすると、衝立で区切られた奥の小部屋に引っ込んだ。
仕事中の同僚の間を抜けて、後を追う。編集長は真弓が入ると、椅子に座れと促した。
「あの、すみません、時間が……」
「話は二分で終るから」
「はあ……」
夜に早く上がらせてもらっている分、朝は早く出て来ている。勿論、入学前に話し合ってのことだし、応援してもらっていると思っていたのだが、何かまずいことでもあつただろうか。不安に思いながら腰を下ろすと、編集長は神妙な顔で身を乗り出した。
「あのな、木下。お前、見合いする気はないか」
「み……見合い、ですか?」
予想外な話に、目を見張った。
「おう。俺の知人にいいお娘さんがいてなあ。将来有望な若いのはいないかって言うからな」
面食らっていたら、編集長は真顔で続ける。
「お前なら真面目だし浮いた噂のひとつもない。ここと大学と家の往復で、酒も付き合い程度、煙草はやらないギャンブルもやらないと来た。うってつけだと思ってな」
「いえ、僕はその……」
「なんだ、安月給を気にしてるのか?大丈夫だ、あちらさんもその辺は飲み込んで下さってるし、慎ましくて美人で気立てのいいお嬢さんなんだ」「いえ、そうではなくて……」
真弓は手を振ると、頭を下げた。
「すみません。せっかくのお話ですが、お断りさせてください」
「どうして。お前もそろそろ嫁さんくらいもらってもいいだろうに。」
「いやあ……僕は、そういうのは」
編集長は探るような目を真弓に向けた。「もしかして、いい人でもいるのか?」返事を躊躇したのは、編集長は納得したらしい。残念そうに頭を搔いている。「う-ん、そうかあ。そういうことなら仕方がないかなあ」
下手に反論はしない方が、話は早そうだ。
「えつと……すみません、本当に。せつかくのお話なんですが」
「まあ、構わんさ。しかし妙な女に捕まっちゃいないだろうな。俺がちゃんと見てやるから、一度連れてこい」
「…は、はあ」
編集長は腕を組んで唸った後、にやりと笑って真弓を見上げた。
「そういやお前、えらく綺麗な兄ちゃんと一緒に住んでるらしいじゃないか。まさかそっちの方じゃねえだろうな?」——あれじゃ、すっかり「そっちの人」だと思われただろうなあ。授業が終って帰り道、真弓は溜息を落としていた。結局、答えあぐねて、時間切れを言い訳に編集部を後にしてしまったのだ。逃げたも同然だ。編集長の性格を考えると、同性愛者だからといって、会社を追い出されるようなことはないだろうが、何となく気まずい。しかしああして改めて訊ねられると、自分でも悩んでしまう。同性愛者であると言い切ったところで、さしたる不都合も無いとは思うが、単純に、実際の自分との乖離を感じるのだ。
ーー同性との✨行為の経験はある。と言っても、過去に一度だけで、その相手が今の同居人だ。それ以来、男女を問わず誰かに欲情した覚えもなし、心意かれた覚えもなし。それで同性愛者を名乗ってもいいものだろうか。
「結婚ねえ……」それすらまともに考えた事が無かった。同居生活を送りながら結婚生活も送る訳にはいかないだろうから、そうするとどう考えても同居は解消だ。
…どうにもピンと来ない。
片付けを終わて立ち上がると、編集長が書類と資料の山の間から、無精髭の濃い顔を覗かせた。瓶底眼鏡の下で、眠たげな目を瞬かせる。
「おう、木下はこれから夜間か」
「はい、すみません、この忙しいときに」
「構わねえよ、今のうちにしっかり勉強してこい。翻訳物の文庫を立ち上げるときには、お前を一番にこき使うから」
戦争が終って五年が過ぎた。
真弓は以前勤めていた出版社の先輩が立ち上げた新しい出版社で、戦後すぐに仕事を再開した。今年の春からは新しく出来た大学の夜間に通い始めて、三ヶ月が過ぎる。
学部は英文学だ。戦争が激しくなる前の一時期、近くに住んでいた宣教師に英語を教えてもらっていたのだが、戦局が悪化し、その人も母国に帰国してしまった。勉強が中途で途絶えてしまったのが、ずっと惜しかったのだ。
英語を習っていたことで、戦中は何かとで、戦中は何かと面倒な目に遭いもしたが、それも過ぎたこと。英語が敵性語と呼ばれて排斥運動が起こったのも過去のことだ。こうして堂々と英語が学べるようになったのが、今は嬉しい。 「あー、そうだそうだ、木下、ちょっと来い」
「はい?」
鞄を手に扉に向かおうとしていた真弓は、首を傾げながら戻る。編集長は、真弓を手招きすると、衝立で区切られた奥の小部屋に引っ込んだ。
仕事中の同僚の間を抜けて、後を追う。編集長は真弓が入ると、椅子に座れと促した。
「あの、すみません、時間が……」
「話は二分で終るから」
「はあ……」
夜に早く上がらせてもらっている分、朝は早く出て来ている。勿論、入学前に話し合ってのことだし、応援してもらっていると思っていたのだが、何かまずいことでもあつただろうか。不安に思いながら腰を下ろすと、編集長は神妙な顔で身を乗り出した。
「あのな、木下。お前、見合いする気はないか」
「み……見合い、ですか?」
予想外な話に、目を見張った。
「おう。俺の知人にいいお娘さんがいてなあ。将来有望な若いのはいないかって言うからな」
面食らっていたら、編集長は真顔で続ける。
「お前なら真面目だし浮いた噂のひとつもない。ここと大学と家の往復で、酒も付き合い程度、煙草はやらないギャンブルもやらないと来た。うってつけだと思ってな」
「いえ、僕はその……」
「なんだ、安月給を気にしてるのか?大丈夫だ、あちらさんもその辺は飲み込んで下さってるし、慎ましくて美人で気立てのいいお嬢さんなんだ」「いえ、そうではなくて……」
真弓は手を振ると、頭を下げた。
「すみません。せっかくのお話ですが、お断りさせてください」
「どうして。お前もそろそろ嫁さんくらいもらってもいいだろうに。」
「いやあ……僕は、そういうのは」
編集長は探るような目を真弓に向けた。「もしかして、いい人でもいるのか?」返事を躊躇したのは、編集長は納得したらしい。残念そうに頭を搔いている。「う-ん、そうかあ。そういうことなら仕方がないかなあ」
下手に反論はしない方が、話は早そうだ。
「えつと……すみません、本当に。せつかくのお話なんですが」
「まあ、構わんさ。しかし妙な女に捕まっちゃいないだろうな。俺がちゃんと見てやるから、一度連れてこい」
「…は、はあ」
編集長は腕を組んで唸った後、にやりと笑って真弓を見上げた。
「そういやお前、えらく綺麗な兄ちゃんと一緒に住んでるらしいじゃないか。まさかそっちの方じゃねえだろうな?」——あれじゃ、すっかり「そっちの人」だと思われただろうなあ。授業が終って帰り道、真弓は溜息を落としていた。結局、答えあぐねて、時間切れを言い訳に編集部を後にしてしまったのだ。逃げたも同然だ。編集長の性格を考えると、同性愛者だからといって、会社を追い出されるようなことはないだろうが、何となく気まずい。しかしああして改めて訊ねられると、自分でも悩んでしまう。同性愛者であると言い切ったところで、さしたる不都合も無いとは思うが、単純に、実際の自分との乖離を感じるのだ。
ーー同性との✨行為の経験はある。と言っても、過去に一度だけで、その相手が今の同居人だ。それ以来、男女を問わず誰かに欲情した覚えもなし、心意かれた覚えもなし。それで同性愛者を名乗ってもいいものだろうか。
「結婚ねえ……」それすらまともに考えた事が無かった。同居生活を送りながら結婚生活も送る訳にはいかないだろうから、そうするとどう考えても同居は解消だ。
…どうにもピンと来ない。