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日本历代京城的简要介绍(后吧同步发表)

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一楼敬献诸位感恩节火鸡一只


1楼2013-11-28 12:15回复
    感谢维基百科对本次科普贴的技术支持


    2楼2013-11-28 12:19
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      2025-08-14 10:48:44
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      一、藤原京
      概要
      690年(持统4)に着工され、飞鸟浄御原宫から694年(持统8)に迁都した。完成は迁都后10年経过の704年(庆云元)と言われ、着工时期は676年(天武5)に始められていた。
      『日本书纪』には、持统天皇四年十月条に「壬申に、高市皇子、藤原(ふぢはら)の宫地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同十二月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宫地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同八年十二月の条に「藤原宫(ふじわらのみや)に迁(うつ)り居(おは)します」とある。
      迁都日时については、一说に持统天皇は旧暦12月6日(ユリウス暦12月27日)の昼前に飞鸟浄御原宫を発ち迁行された、とされる。710年(和铜3)に平城京に迁都されるまで持统・文武・元明の三天皇が居住した16年间、日本の首都であった。扶桑略记によれば、711年(和铜4)に宫が焼けたとされている。
      藤原京の名称は近代に作られた学术用语であり、『日本书纪』には登场しない。『日本书纪』ではこの都城のことは、京が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持统天皇六年正月十二日条)、宫が「藤原宫」と呼びわけられている。
      藤原宫はほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さの塀で囲み、东西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に门が设置されていた。南の中央の门が正面玄関に当たる朱雀门である。藤原宫は、南北约600m、东西约240mにおよぶ日本で最大の规模を持つ朝堂院遗构である。大极殿などの建物は中国风に瓦葺で造られた(日本の宫殿建筑では初めて)。
      木简约1200点が出土している。大宝律令の内容などが复元出来そうな史料であるという。「大宝元年」という年号や「中务省」・「宫内省」などの官庁名も混じった文书、当时の高官の名前なども书かれており、重要史料であるという。
      2010年7月に、天皇の即位仪礼が行われる『大尝宫』の可能性がある建物迹などが発见されたと、奈良文化财研究所が発表した。根拠としては、柱の迹が42本见つかり、これらが建物迹や塀迹、门迹であると确认され、これが「平城宫の大尝宫迹と类似した构造」であるとされた。ところが、藤原宫があった时代には、実际には柱穴が1基しかなかったなど、矛盾点が多数见つかり、同研究所は11月18日に、调査结果を撤回する事态になった[1]。
      奈良県橿原市高殿町に藤原宫の大极殿の土坛が残っており、周辺は史迹公园になっている(位置:北纬34度30分8.5788秒东経135度48分27.1368秒(世界测地系))。藤原宫迹の6割ほどが国の特别史迹に指定されており、藤原宫及び藤原京の発掘调査が続けられている。
      1968年(昭和43年)9月13日、歴史的风土特别保存地区[2]に指定されている。公共施设である橿原市斎场と橿原市昆虫馆等の建设のために道路が作られて、香具山(歴史的风土特别保存地区)と分断されることになる。2005年、大和三山は国の名胜に指定された。
      2007年1月、日本政府は世界遗产登录の前提となる暂定リストに「飞鸟・藤原の宫都とその関连资产群」を登录した
      以上为大和文原版


      3楼2013-11-28 12:21
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        皇宫和京城的复原图(不知道对玩游戏建房子的同僚能不能起到帮助)


        5楼2013-11-28 12:27
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          三、平城京
          桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から长冈京を造営して迁都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた贵族や寺院の势力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから仅か9年后の793年(延暦12年)の1月、和気清麻吕の建议もあり、桓武天皇は再迁都を宣言する(理由は长冈京を参照)。场所は、长冈京の北东10km、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野郡および爱宕郡の地であった。事前に桓武天皇は现在の京都市东山区にある将军冢から见渡し、都に相応しいか否か确めたと云われている。日本纪略には「葛野の地は山や川が丽しく四方の国の人が集まるのに交通や水运の便が良いところだ」という桓武天皇の勅语が残っている。
          大极殿(大内裏内)迹
          平安京の造営はまず宫城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を进めたと考えられる。都の中央を贯く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が设けられて、その中央には大极殿が作られた。その后方の东侧には天皇の住まいである内裏が设けられた。都の东西を流れる鸭川や桂川沿いには、淀津や大井津などの港を整备した。これらの港を全国から物资を集める中継基地にして、そこから都に物资を运び込んだ。运ばれた物资は都の中にある大きな二つの市(东市、西市)に送り、人々の生活を支えた。このように食料や物资を安定供给できる仕组みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、长冈京で住民を苦しめた洪水への対策も讲じ、都の中に自然の川がない代わりに东西にそれぞれ「堀川」(现在の堀川と西堀川)を整备し、水运の便に供するとともに生活廃水路とした。そして长冈京で认めなかったようにここでも官寺である东寺と西寺を除き新たな仏教寺院の建立を认めなかった(この他平安迁都以前からの寺院として京域内には六角堂があった)。794年(延暦13年)10月22日に桓武天皇は新京に迁り、翌11月8日には山背国を山城国に改名すると诏を下した。
          「此の国は山河襟帯し、自然に城をなす。此の胜(形胜)によりて、新号を制すべし。よろしく山背国を改めて、山城国となさん。また子来の民、讴歌の辈、异口同辞に、曰いて平安京と号す」(此の国は山河が周りを取り囲み、自然に城の形をなしている。この形胜に因んで、新しい名前を付けよう。「山背国」を改めて「山城国」と书き表すことにしよう。また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、异口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする)。ここに言う「讴歌」とは、迁都の翌年正月16日に宫中で催された宴でも歌われた踏歌の囃し言叶「新京楽、平安楽土、万年春(しんきょうがく、びょうあんがくつ、まんねんしゅん)」を言うのであろう。
          810年(弘仁元年)、皇位をめぐる対立で平城京に都を戻そうという动きが起こるが、嵯峨天皇は平安京を残すことこそ、国の安定と考え、この动きを退ける。そして平安宫を「万代宫(よろずよのみや)」と定める(永远の皇居という意)。
          京域が広すぎたためか、规则正しく配置された条坊が人家で埋まることはついになく、特に右京の南方の地では桂川の形作る湿地帯にあたるため9世纪に入っても宅地化が进まず[4]、律令制がほとんど形骸化した10世纪には荒廃して本来京内では禁じられている农地へと転用されることすらあった。贵族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に设けられ藤原氏のような上流贵族の宅地が左京北部へ集中する一方、贫しい人々は京内南东部に密集して住み、さらには平安京の东限を越えて鸭川の川べりに住み始めた。また鸭川东岸には寺院や别荘が建设されて市街地がさらに东に広げられる倾向が生じた。980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある罗城门(罗生门)が倒壊し、以后再建されることはなかった。こうして次第に平安京の本来の范囲より东に偏った中世・近世の京都の街が形作られ、京域を示す「洛中」という言叶も実质的に左京を指して用いられた。
          平安京(京都)は、関东地方を基盘とする镰仓幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての机能を次第に失った。とくに室町时代から戦国时代にかけての时期は、応仁の乱にて市街地の过半を焼失し、衰退した。その后、平安京の市街地は、上京と下京に分かれて小规模なものとなっていた。これが再度一体の市街として复兴に向かうのは安土桃山时代であり、织田信长の上洛后のことである。豊臣秀吉は大内裏の迹地である内野に政庁である聚楽第を设けたが、関白位を甥の秀次に譲ると伏见に伏见城を建设して隠居。间もなく秀次が失脚して聚楽第が破却されると政治の中心は京都から离れて完全に伏见に移ることとなった。
          関ヶ原合戦后、徳川家康は、洛中に二条城を建设したがこれは政庁としての城ではなくもっぱら仪礼的な役割を担うものであったから、このことによって京都が政都に复することはなかった。江戸时代には、国政の中心地は江戸、商业の中心地は大坂に移ったものの、京都には幕府の机関である京都所司代が置かれて朝廷との交渉や京都市政を担った。各藩も藩邸を置いて対朝廷及び各藩间の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず例えば西国大名が参勤交代の际、京都に入ることを禁じた。幕末には京での政情不安に鉴み京都守护职を新たに置き、一层支配を强めようとした。
          明治维新の际には、明治天皇の东京行幸で留守の都となり、留守官が置かれた(明治4年廃止)。江戸を东京と改名する诏勅は下されたものの、京都に残る公家らの反発が大きかったため、「迁都」という言叶は避けられた(→东京奠都)。以后も天皇の京都行幸は度々行われ、その际には、勅旨で保存された京都御所または仙洞御所(京都大宫御所)に宿泊することが惯例となった。なお、天皇の玉座である高御座も、京都御所の紫宸殿に据え置かれている。


          7楼2013-11-28 12:35
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            汉文版的明天再发


            8楼2013-11-28 12:37
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              小明厉害~~~


              来自Android客户端9楼2013-11-28 12:52
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                等看中文


                10楼2013-11-28 16:01
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                  2025-08-14 10:42:44
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                  IP属地:河北11楼2013-11-29 02:14
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                    费劲巴拉的,总算找到了中文版,但是和大河文原版似乎出入太大,对付着看吧


                    12楼2013-12-02 08:50
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                      平城京
                      平城京(へいじょうきょう,Heijōkyō)是日本奈良时代的京城,地处今奈良市西郊。710年(和铜三年),元明天皇迁都于此。平城京模仿唐朝都城长安和北魏都城洛阳。其规模东西约6.3公里,南北约4.7公里。中央有宽85米的朱雀大路,将市区分为左右两京。原城内的一些古建筑在1998年作为“古奈良的历史遗迹”的重要组成部分,被列为世界文化遗产
                       7世纪之前,日本的都城都是随着天皇所在地而变换的。但是随着律令制度的完善,与大陆的交流也日趋频繁,大和朝廷深切感受到唐朝巨大的都城可以有效地显示国威,于是着手建造自己最初的大都城。694年建成的藤原京(位于奈良县橿原市),因为土地不够宽广,难以适应越来越多的人口居住,所以在仅仅16年后的710年,元明天皇便迁都平城京。784年桓武天皇迁都奈良市西方的长冈京,在这之间的70多年中,平城京是日本的国都,而这一时代也被称为奈良时代。
                        平城京是仿照唐朝都城长安(西安)建造的,东西约4.2km(32町),南北约4.7km(36町),面积大约相当于长安城的四分之一。这个矩形的城内,不论东西南北,每隔4町就有大路相通,犹如棋盘一样。城北的正中,有向南占地8町见方的“大内里”(平城宫),皇宫和役所就在其中。此外城中还有贵族和役人的住所、大寺院、庶民住的盖有茅草的屋子和稻田。都城设有东西两个市场,使用货币“和铜开弥”交易各种物品。估计当时城中的人口约有10万人(全盛时估计有20万人),其中高级贵族约100人,中级役人约600人,可见绝大多数还是奴婢、手工业者、农民和从地方征用来的壮丁。役所、贵族的宅邸、寺院等建筑物,有着红色的柱子、雪白的墙壁,屋顶则盖有瓦。
                        1959年(昭和34年)对平城宫遗迹的发掘调查,探明了建筑物的规模,而且出土了很多写有文字的木简、以土器为主的生活用具。平城宫遗迹现在作为史迹公园受到保护,而通过不断的发掘研究,一个雄伟壮观的平城京渐渐显现在我们眼前。
                      和铜三年(710年),在大和北方的奈良建造了新的都城平城京,元明天皇从藤原京迁都至此。这是个由大路分割成九条九坊的约四公里见方的都城,皇宫和役所在其正北。到延历三年(784年)桓武天皇迁都到更北面的长冈京为止,平城京曾被荒废了一段时期,但是在七代天皇约70年中,平城京始终是日本的政治中心。
                        平城京是仿照唐朝的都城长安而建造的,加之由于圣武天皇狂热地信仰和推广佛教,所以平城京中有很多的寺院。这里也是《万叶集》后期众多和歌作者们生活的场所。
                        迁都到平城京之前,日本的国都是位于大和平原南面明日香村北部的藤原京。藤原京是明日香净御原宫时代天武天皇计划修建的都城,然而直到其妻子即位为持统天皇后才得以建成。
                        在天武天皇之前,国都是随着天皇所在地而一代一都制的变动着。掌握政治实权的高官们,特别是以大和为中心的有力豪族们,常常在自己的根据地周围生活,在执行政务时便到皇宫来。这样的体制,与其说存在都城,不如说作为天皇住所的皇宫是国家政治中心比较合适。
                        与此不同的是,和日本隔海相望的中国大陆与朝鲜半岛却在很早以前就确立了律令制度,大规模的都城既是政治中心又是商业都市,一片繁荣昌盛的景象。“大化革新”以来,学习先进的大陆国家体制而建立的律令制度得以完备,天武天皇便将建设国都提上了中心议程,于是在明日香以北筹划建造新的国都藤原京。
                        藤原京以皇宫为中心,天皇、为朝廷效力的役人等各家族一起住在一个城市中,这是一个很大的变革。因为当时的生活是以自给自足为主,所以消费型的流通经济并不发达。模仿强大国家中国的都城,是想向朝鲜半岛的外国使节们和本土的国民显示日本的国威吧。
                        应该指出的是,藤原京的建造,很可能并不是日本人参考中国真实的都城所建。据说是天智八年(669年)的遣唐使,参考周礼等中国书籍而建设的。
                        时隔30年,日本再次派遣了遣唐使。大宝二年(702年)回国时他们详细描述了中国长安城的辉煌壮丽。曾经以为是以长安为范本而建造的藤原京,与之相比实在显得微不足道。
                        在以前的发掘调查中,都没能找到藤原京的大极殿遗址。昭和32年奈良县立橿原考古学研究所宣称找到被称为大宫土檀的地方,并认为这附近就是藤原京的大极殿所在地。由于当初研究者大多有着“藤原京是模仿长安城建造的”这一先入为主的固有观念,认为皇宫应该位于都城的北面,并且是在平坦的地方,朝向南侧。所以推测藤原京的范围是北面以西通大阪、东抵伊势的横大路为界,西面以位于亩傍山东方的下道(以见濑丸山古坟为基准)、东面以经过香具山山顶的中道为界(详见附图)。可是经过此后的多次发掘调查,京城大路遗迹和侧沟等被发掘出土。大家才发觉当初所设定的范围其实是实际范围的两倍,藤原宫并不是位于都城的北面,而是位于都城的正中,这样一来藤原京的全貌便渐渐清晰起来。
                        现在反过来想想就会明白了,藤原京与长安城是有着很大不同的。首先,皇宫不是如长安城那样位于都城的北面并向南延伸,而是位于都城的中心。这恐怕是以周礼中的“天子畿内说”为根据,认为天子的住所应该是位于中央的,在这种想象之下才建造形成的。
                        此外,长安城整体来说地势从北向南渐渐由高变低,这是考虑到南面有黄河的缘故而在打地基时有意安排的,皇城位于长安城的北端,废水、污物等不会滞留宫中。可是藤原京因为位于大和平原的南面,飞鸟川向北流动,地势是由南向北渐渐由高变低。藤原宫却位于藤原京的中央,可想而知排出的废水、污物等就会顺着飞鸟川流经藤原宫了,那滋味肯定是不好受的。
                        而且长安城朱雀门南面还有明德门,宽广的大路令人顿觉气势逼人。可是藤原京的朱雀大路却很快被丘陵所阻止,实际上是横跨飞鸟川并削平日高山才建成的。总之,作为都城的藤原京缺乏合理的设计和向外拓展的空间。最宽阔的朱雀大路也才不到25m宽,比起长安城来真是相当的寒酸,亲眼见过气势宏伟的长安城,再看自己的都城藤原京,相信那些遣唐使肯定会感慨良多吧。
                        进入长安城的外国使节是先从黄河沿岸进入南面的明德门,再沿北上的道路前往皇宫。藤原京却是从西面的横大路进入,外国使节们是从西面进入位于中央的皇宫,这就不能显示天子坐北朝南与臣下接触的威仪,也显现不出国威来。
                        早先曾认为是因为《大宝律令》推行之后官衙(役所建筑)显得狭窄,藤原京中的人口增长过快而使元明天皇决定迁都的,现在看来仅仅经过二代天皇便放弃藤原京,原因并不仅仅在此啊,上面所叙述的事说不定也是迁都的理由,而且可能是真正重要的理由。
                      和铜三年(710年),在大和北方的奈良建造了新的都城平城京,元明天皇从藤原京迁都至此。这是个由大路分割成九条九坊的约四公里见方的都城,皇宫和役所在其正北。到延历三年(784年)桓武天皇迁都到更北面的长冈京为止,平城京曾被荒废了一段时期,但是在七代天皇约70年中,平城京始终是日本的政治中心。
                        平城京是仿照唐朝的都城长安而建造的,加之由于圣武天皇狂热地信仰和推广佛教,所以平城京中有很多的寺院。这里也是《万叶集》后期众多和歌作者们生活的场所。
                        迁都到平城京之前,日本的国都是位于大和平原南面明日香村北部的藤原京。藤原京是明日香净御原宫时代天武天皇计划修建的都城,然而直到其妻子即位为持统天皇后才得以建成。
                        在天武天皇之前,国都是随着天皇所在地而一代一都制的变动着。掌握政治实权的高官们,特别是以大和为中心的有力豪族们,常常在自己的根据地周围生活,在执行政务时便到皇宫来。这样的体制,与其说存在都城,不如说作为天皇住所的皇宫是国家政治中心比较合适。
                        与此不同的是,和日本隔海相望的中国大陆与朝鲜半岛却在很早以前就确立了律令制度,大规模的都城既是政治中心又是商业都市,一片繁荣昌盛的景象。“大化革新”以来,学习先进的大陆国家体制而建立的律令制度得以完备,天武天皇便将建设国都提上了中心议程,于是在明日香以北筹划建造新的国都藤原京。
                        藤原京以皇宫为中心,天皇、为朝廷效力的役人等各家族一起住在一个城市中,这是一个很大的变革。因为当时的生活是以自给自足为主,所以消费型的流通经济并不发达。模仿强大国家中国的都城,是想向朝鲜半岛的外国使节们和本土的国民显示日本的国威吧。
                        应该指出的是,藤原京的建造,很可能并不是日本人参考中国真实的都城所建。据说是天智八年(669年)的遣唐使,参考周礼等中国书籍而建设的。
                        时隔30年,日本再次派遣了遣唐使。大宝二年(702年)回国时他们详细描述了中国长安城的辉煌壮丽。曾经以为是以长安为范本而建造的藤原京,与之相比实在显得微不足道。
                        在以前的发掘调查中,都没能找到藤原京的大极殿遗址。昭和32年奈良县立橿原考古学研究所宣称找到被称为大宫土檀的地方,并认为这附近就是藤原京的大极殿所在地。由于当初研究者大多有着“藤原京是模仿长安城建造的”这一先入为主的固有观念,认为皇宫应该位于都城的北面,并且是在平坦的地方,朝向南侧。所以推测藤原京的范围是北面以西通大阪、东抵伊势的横大路为界,西面以位于亩傍山东方的下道(以见濑丸山古坟为基准)、东面以经过香具山山顶的中道为界(详见附图)。可是经过此后的多次发掘调查,京城大路遗迹和侧沟等被发掘出土。大家才发觉当初所设定的范围其实是实际范围的两倍,藤原宫并不是位于都城的北面,而是位于都城的正中,这样一来藤原京的全貌便渐渐清晰起来。
                       


                      15楼2013-12-02 09:01
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                        每次看京城配火鸡就不觉扶额 = =


                        18楼2013-12-02 09:35
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