三、平城京
桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から长冈京を造営して迁都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた贵族や寺院の势力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから仅か9年后の793年(延暦12年)の1月、和気清麻吕の建议もあり、桓武天皇は再迁都を宣言する(理由は长冈京を参照)。场所は、长冈京の北东10km、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野郡および爱宕郡の地であった。事前に桓武天皇は现在の京都市东山区にある将军冢から见渡し、都に相応しいか否か确めたと云われている。日本纪略には「葛野の地は山や川が丽しく四方の国の人が集まるのに交通や水运の便が良いところだ」という桓武天皇の勅语が残っている。

大极殿(大内裏内)迹
平安京の造営はまず宫城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を进めたと考えられる。都の中央を贯く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が设けられて、その中央には大极殿が作られた。その后方の东侧には天皇の住まいである内裏が设けられた。都の东西を流れる鸭川や桂川沿いには、淀津や大井津などの港を整备した。これらの港を全国から物资を集める中継基地にして、そこから都に物资を运び込んだ。运ばれた物资は都の中にある大きな二つの市(东市、西市)に送り、人々の生活を支えた。このように食料や物资を安定供给できる仕组みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、长冈京で住民を苦しめた洪水への対策も讲じ、都の中に自然の川がない代わりに东西にそれぞれ「堀川」(现在の堀川と西堀川)を整备し、水运の便に供するとともに生活廃水路とした。そして长冈京で认めなかったようにここでも官寺である东寺と西寺を除き新たな仏教寺院の建立を认めなかった(この他平安迁都以前からの寺院として京域内には六角堂があった)。794年(延暦13年)10月22日に桓武天皇は新京に迁り、翌11月8日には山背国を山城国に改名すると诏を下した。
「此の国は山河襟帯し、自然に城をなす。此の胜(形胜)によりて、新号を制すべし。よろしく山背国を改めて、山城国となさん。また子来の民、讴歌の辈、异口同辞に、曰いて平安京と号す」(此の国は山河が周りを取り囲み、自然に城の形をなしている。この形胜に因んで、新しい名前を付けよう。「山背国」を改めて「山城国」と书き表すことにしよう。また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、异口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする)。ここに言う「讴歌」とは、迁都の翌年正月16日に宫中で催された宴でも歌われた踏歌の囃し言叶「新京楽、平安楽土、万年春(しんきょうがく、びょうあんがくつ、まんねんしゅん)」を言うのであろう。
810年(弘仁元年)、皇位をめぐる対立で平城京に都を戻そうという动きが起こるが、嵯峨天皇は平安京を残すことこそ、国の安定と考え、この动きを退ける。そして平安宫を「万代宫(よろずよのみや)」と定める(永远の皇居という意)。
京域が広すぎたためか、规则正しく配置された条坊が人家で埋まることはついになく、特に右京の南方の地では桂川の形作る湿地帯にあたるため9世纪に入っても宅地化が进まず[4]、律令制がほとんど形骸化した10世纪には荒廃して本来京内では禁じられている农地へと転用されることすらあった。贵族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に设けられ藤原氏のような上流贵族の宅地が左京北部へ集中する一方、贫しい人々は京内南东部に密集して住み、さらには平安京の东限を越えて鸭川の川べりに住み始めた。また鸭川东岸には寺院や别荘が建设されて市街地がさらに东に広げられる倾向が生じた。980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある罗城门(罗生门)が倒壊し、以后再建されることはなかった。こうして次第に平安京の本来の范囲より东に偏った中世・近世の京都の街が形作られ、京域を示す「洛中」という言叶も実质的に左京を指して用いられた。
平安京(京都)は、関东地方を基盘とする镰仓幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての机能を次第に失った。とくに室町时代から戦国时代にかけての时期は、応仁の乱にて市街地の过半を焼失し、衰退した。その后、平安京の市街地は、上京と下京に分かれて小规模なものとなっていた。これが再度一体の市街として复兴に向かうのは安土桃山时代であり、织田信长の上洛后のことである。豊臣秀吉は大内裏の迹地である内野に政庁である聚楽第を设けたが、関白位を甥の秀次に譲ると伏见に伏见城を建设して隠居。间もなく秀次が失脚して聚楽第が破却されると政治の中心は京都から离れて完全に伏见に移ることとなった。
関ヶ原合戦后、徳川家康は、洛中に二条城を建设したがこれは政庁としての城ではなくもっぱら仪礼的な役割を担うものであったから、このことによって京都が政都に复することはなかった。江戸时代には、国政の中心地は江戸、商业の中心地は大坂に移ったものの、京都には幕府の机関である京都所司代が置かれて朝廷との交渉や京都市政を担った。各藩も藩邸を置いて対朝廷及び各藩间の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず例えば西国大名が参勤交代の际、京都に入ることを禁じた。幕末には京での政情不安に鉴み京都守护职を新たに置き、一层支配を强めようとした。
明治维新の际には、明治天皇の东京行幸で留守の都となり、留守官が置かれた(明治4年廃止)。江戸を东京と改名する诏勅は下されたものの、京都に残る公家らの反発が大きかったため、「迁都」という言叶は避けられた(→东京奠都)。以后も天皇の京都行幸は度々行われ、その际には、勅旨で保存された京都御所または仙洞御所(京都大宫御所)に宿泊することが惯例となった。なお、天皇の玉座である高御座も、京都御所の紫宸殿に据え置かれている。