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杉原 千畝~自らの心に従った外交官~

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杉原 千畝~自らの心に従った外交官~
▲リトアニア領事代理の頃の千畝    杉原千畝という人の名前は知らなくても、「日本のシンドラー[※1]」と呼ばれる人の話はどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。1940年、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻によって戦火が欧州全土に拡大していく中、リトアニアの日本領事代理だった杉原千畝は、ナチスの迫害から逃れるためにポーランドを後にしたユダヤ人難民に対し、外交官としての自らの立場や危険をかえりみず、日本通過のビザを発給し、六千人を超えるユダヤ人の命を救いました。彼の人間愛に満ちたその行為は、今でも世界中のユダヤ人社会では語り継がれています。



1楼2010-08-05 18:36回复
    ◆ 命令に背いた決断
       「日本の通過ビザ」を求めて必死になって懇願するユダヤ人難民を目の前にして、領事代理(実質上は領事)の杉原千畝は苦悩していました。
    ▲領事館に集まったユダヤ人難民 日本の外務省はビザ発給の条件を、「行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」としていたため、避難民のほとんどは受給資格を欠いていました。千畝は緊急のビザ発給許可を外務省に求めますが、どうしても許可は下りませんでした。その背景には、日独伊三国同盟の締結を間近に控えていたことから、むやみにドイツを刺激したくないという国内での政治的事情もありました。
       ユダヤ人難民の人命救助、かたや外交官として本国の指示に従うべきとの判断の狭間に立たされて千畝は迷い、悩みました。その間にも領事館を取り囲むユダヤ人難民は数を増やしてゆきます。そして七月二五日、ついに自らの心に従った千畝は、職を賭して日本通過ビザの発給を決断します。「私は人間として、この人たちを見はなすことはできない」と。
       なお、無謀とも思えるこの決断にあたっては、日本へ上陸できさえすればこの人々は助かるだろうとの確信のもと、千畝はソビエト総領事館に交渉してユダヤ人難民がソ連国内を通過できるよう認めてもらっています。
    


    2楼2010-08-05 18:38
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      1985年にはイスラエルの財団から、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人として初めて「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」が授与され、エルサレムの丘には顕彰碑が建てられました。そして1991年、ソ連から独立を回復したリトアニアの首都ビリニュス市内には「スギハラ通り」が設けられ、桜が植樹されました。2008年にはポーランドの叙勲「ポーランド復興勲章コマンドルスキ星十字型章」が授与されました。
         外務省の命令に背いた千畝の行為は、外交官としての服務違反であるかもしれませんが、人間としての正義を貫いて、多くの人びとの命を救った、その勇気と行動は、今も世界で高く評価されています。 


      3楼2010-08-05 18:40
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        日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で「日本人」なのか。(櫻井よしこさんの言葉)
        


        4楼2010-08-05 18:45
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          1940年、リトアニアの日本領事館にいた杉原。
             当時、ナチスに迫害され逃げてきた多くのユダヤ難民は、さらなる迫害から逃れるため、国外脱出を望んでいた。
             どこの国もビザの発給を拒む中、杉原は本国外務省の指示にそむき、ユダヤ人を国外へ逃すため、独断でビザを発給。
             しかし戦後、命令に背いたことを理由に、杉原は外務省から追放され、その行いは一切日本では語られなかった。
          


          5楼2010-08-05 18:46
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            28年目の再会
               1968年8月、ソ連で貿易の仕事をしている千畝が一時帰国している時に、イスラエル大使館から電話がありました。その日のうちに大使館を訪ねると、参事官が一枚のボロボロの紙を差し出して、訊ねました。
               「これを覚えていますか?」
               その手には、28年前にカウナスで発行したビザが乗せられていました。「私はあの時領事館であなたと交渉した5人のうちの一人、ニシュリです」
               千畝の脳裏に、カウナス最後の日の情景がありありとよみがえってきました。  
               ベルリンに向かう列車を待つホームでもなお、ビザを求めておしよせるユダヤ人たちを前に一人でも多くの命を救おうとビザを書き続けたあの日のことが。
               列車がゆっくりと動きだした時、ユダヤ人たちは「ありがとう、スギハラァ!」「私たちはあなたを忘れない。もう一度あなたに会いにいきます」と口々に叫んでいました。
               あの日の約束を守りユダヤ人は28年もの永い年月、千畝を探し続けやっと再会したのです
            


            6楼2010-08-05 18:53
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              ヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)受賞
              ヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)
                 1985年1月18日、イスラエル政府からヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)が送られました。この賞はイスラエル国政府がユダヤ建国に尽くした外国人に与える勲章で、日本人として初めての受賞です。英雄として扱われることを潔しとしなかった千畝でしたが、今までの苦労が報われたような気がしたのではないでしょうか
              


              7楼2010-08-05 18:55
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                ■4.バンザイ、ニッポン   ■
                9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ。ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。ついに汽車が走り出す。
                     走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは
                     「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」
                夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。
                     「バンザイ、ニッポン」
                    誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれる事を期待していたのでしょう。
                     「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
                列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました
                


                9楼2010-08-05 19:25
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                  「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」...
                  感動のあまり涙を流した


                  11楼2010-08-06 09:05
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