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空海に赠られた唐人の送别诗

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空海に赠られた唐人の送别诗
http://www.ch.zju.edu.cn/rwxy/rbs/2rwlwwangyongdongya3.htm
http://www.ch.zju.edu.cn/rwxy/rbs/2rwlwwangyongdongya3.htm 

一、史料としての唐诗

 弘法大师こと空海ほど、今なお国民英雄的な存在となっている入唐僧はめずらしい。平安仏教の双璧と称される最澄と空海とをくらべれば分かるように、空海人気の秘密は真言宗の开祖とともに、その多芸多才さにあると思われる。「弘法も笔の误り」ということわざは、その达笔ぶりを讴ったものであり、平仮名の発明者と崇められるのは、その言语才能から生まれた伝承にほかならない。

 古今东西を问わず、歴史人物の実像は、たいがい时间とともに风化し、いつかは化石となってしまう。ところが、ひとたびその人物の虚像が创られてしまうと、虚像から虚像を生み出し、いつしか実像がかえって见えなくなることがある。空海に関していえば、あんまりにも膨らんだ虚像群に、その実像がすっぽり埋もれている感を禁じえない。

 地表を深く掘りさげて、最古の地层をめざす考古学者と同じく、歴史研究者は古代人物の原像を复元するために、时代ごとの伝承に彩られた原资料を発掘するほかない。ただし、空海について新しい史料の発见はほぼ绝望的である。ここで、従来は史料として軽视されがちな唐诗にスポットを当ててみたい。

 


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1楼2007-09-30 03:55
    古代にさかのぼるほど、文学と歴史の境界线は、あまり明晰ではない。近代的な分类で「文学」と决めつけられる野史・笔记・伝奇・诗赋などに、贵重な史実が隠されていることは、近年だんだんと认められるようになってきた。いや、勅撰史书よりも、文学作品はリアルに人物の性格や风貌、社会の风习や世相を伝える生の史料として脚光を浴びることさえある。

     

    二、唐人の送别诗

     延暦二十三(八〇四)年七月に、第十八回の遣唐使にしたがって出発し、大同元(八〇六)年十月に帰国した空海は、わずか二年间の留学期间中、本业の仏教を研鑚するかたわら、ひろく唐の文人墨客らと交友していた。その痕迹を残してくれたのは、唐人から赠られた唱和诗と送别诗とである。これらの唐诗は、中国には伝わらず、佚诗と称される贵重な资料である。

     唐人から空海へ赠られた汉诗は、赠答诗と送别诗とをあわせて七首ある。赠答诗二首は、空海が长安滞在中、つまり贞元二十年(八〇四)十二月に长安入りしてから、永贞元年(八〇五)十二月に帰国を决意するまでの间に、马総(ばそう)と胡伯崇(こはくすう)から赠られたものと推定される。送别诗五首は、元和元年(八〇六)长安を発って南下し、江南から出港する前に受け取ったものと考えられる。

    赠答诗二首については、それに咏まれた空海像をすでに详しく论じたことがあるので、1本稿では、送别诗五首を取りあげて、それをめぐる诸般の事情を考察してみたい。送别诗の作者は朱(しゅ)千乗(せんじょう)をはじめ、朱少瑞(しゅしょうずい)、昙清(どんじょう)、鸿渐(こうぜん)、郑壬(ていじん)らの五名だが、まず作品を 圣贤(しょうけん)の著わした『高野大师御広伝』2より掲出する。(原文の校正は注を参照。訳文で语句を适宜に订正した)

    (1)送日本国三蔵空海上人朝宗我唐兼直方物而□□□□従海东诗叙3

    前试卫尉寺丞 朱千乗

    古貌宛休公 古貌宛も休公のごとく

    谈真说苦空 真を谈じて苦空を说く

    応伝六祖后、六祖の后を伝うべく

    建化岛夷中 远く岛夷の中を化す

    去歳朝秦阙 去歳に秦阙を朝して

    今春赴海东 今春は海东に赴かん

    威仪易旧体 威仪は旧体を易えて

    文字冠儒宗 文字は儒宗に冠たり

    留学幽微旨 留学して微旨を幽め

    玄関护法宗 玄関にて法崇宗を护る

    凌波无际碍 波を凌ぎて际碍なく

    振锡路何穷 锡を振う路穷まらん

    水宿鸣金磬 水宿は金磬を鸣らし

    云行侍玉童 云行は侍玉童侍べり

    承恩见明主 承恩して明主に见え

    偏沐僧家风4 偏に僧家の风を沐す

    (2)送空海上人朝谒后帰日本国

    越府郷贡进士 朱少瑞

    禅客祖州来 禅客は祖州より来たり

    中华谒帝廻 中华に帝を谒して廻る

    腾空犹弥锡、腾空して犹も锡を振い

    过海素浮杯 过海は素より杯に浮ぶ

    仏法逢人授 仏法は人に逢えば授け

    天书到国开 天书は国に到りて开く

    帰程数万里 帰程は数万里もあれど

    后会信悠哉5 后会は悠きかなと信ず

    (3)奉送日本国使空海上人橘秀才朝献后却还在6

    大唐国沙门 昙清

    异国桑门客 异国の桑门の客にして

    乗坏望斗星 杯に乗りて斗星を望む

    来朝僧天子 来りて唐の天子に朝し

    帰訳竺乾経 帰りて竺乾の経を訳す

    万里洪涛白 万里の洪涛は白けれど

    三春孤岛青 三春の孤岛は青ばめり

    到宫方奏対 宫に到り奏対せんとし

    円像到王庭 7図像は王庭に列ねたり

    (4)同前

    大唐沙门 鸿渐

    禅居一海隔 禅居は一海を隔てて

    郷路祖州东 郷路は祖州の东なり

    到国宣周礼 国に到り周礼を宣べ

    朝天得僧风 朝天して僧风得たり

    崇鱼梵远日 山冥くして鱼梵远く

    正蜃楼□空 日正して蜃楼は空し


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    2楼2007-09-30 03:56

      人至非徐福 人至るも徐福に非ず

      何由寄信通 8何に由りてか信を寄せて通ぜん

      (5)同前

      郑壬字 申甫9

      承化来中国 化を承けて中国に来り

      朝天是外臣 朝天して是れ外臣なり

      异方谁仰侣 异方に谁ぞ侣とならん

      孤屿自为隣 孤屿は自ら隣りと为す

      雁塔帰殊域 雁塔より殊域に帰りて

      鲸波渉巨津 鲸波は巨津を渉りけり

      他年続僧史 他年に僧史を続くるに

      更载一贤人 10更に一の贤人を载さん

       

      三、送别诗作成の场所

      『高野大师御広伝』は、空海らが元和元年(八〇六)八月に明州を出港する直前の记事に朱千乗らの送别诗五首をあげ、作成の场所が明州だったことを示唆する。それにしたがえば、作成の时期も八月前后ということになる。

      ところが、空海らが遣唐使船の停泊していた明州をめざして南下する途中、越州に立ち寄っていたことは、「元和元年四月日」の日付をもつ『请越州节度使求内外経书启』によって裏づけられる。越州において、空海が唐人と诗の唱和があった证拠はいくつか挙げられる。

      朱千乗の诗には、百字あまりの长い诗序がついている。『高野大师御広伝』によって、全文を以下に示す。

      沧溟无限、极不可究。海外缁侣、朝宗我唐。即日本三蔵空海上人也。能梵书、工八体;缮倶舎、精三乗。去秋而来、今春而往。反掌云水、扶桑梦中。他方异人、故国罗汉。盖乎凡圣不可以测识、亦不可以智知。勾践相遇、対江问程。那堪此情、离思増远。愿愿珍重珍重。元和元年春沽洗之月聊序。当时少留诗云。11(沧溟に限りなく、极め究むべからず。海外の缁侣、わが唐に朝宗す。即ち日本三蔵の空海上人なり。梵书を能くし、八体に工みなり。倶舎を缮し、三乗に精ず。去秋に来りて、今春に往く。云水は反掌のごとく、扶桑は梦の中なり。他方の异人にして、故国の罗汉なり。盖しや凡と圣は以って测り识るべからず、亦た智を以って知るべからず。勾践にて相遇し、江を対てて程を问う。この情に堪えがたく、离思は远きとともに増す。愿わくは珍重を重なんことを。元和元年春沽洗の月に聊か序す。当时に少しく诗を留めて云わく)

      诗序に「勾践相遇、対江问程」とあるところを、『深贤记』(『弘法大师行化记』)は「勾践恐当作邂逅」と校异し、原文に误りがあったと疑っているが、「邂逅」と「相遇」は类义语の重复となり、かえって文意に龃龉が生じる。「勾践」は春秋时代の越王勾践のことで、ここでは勾践の故地をさし、「越州で相遇する」という意味に読みとるべきであろう。

      『全唐诗』を调べると、「勾践」の语が三回ほど出てくるが、うち二回は「呉」と対をなして用いられている。つまり、李白の『西施』に「勾践征绝艶、扬蛾入呉関」とあり、刘驾の『如苏台』に「勾践饮瞻日、呉酒正満杯」とみえる。したがって「対江问程」は、空海らが呉地から扬子江をわたって越地に入ろうとする际に、朱千乗らと邂逅した様子をほのめかしている。

      谢海平氏は、朱千乗が诗序を作ったのは、恵果の葬仪が终わり、帰国の意を固めたころ、场所は长安だったと推定しているが、12「勾践相遇、対江问程」によれば、それは扬子江より南の越州だったとすべきであろう。それを裏づけるのは「越府郷贡进士」とある朱少瑞の肩书きである。「越府」とは、越州の治所であり、今の绍兴にあたる


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      3楼2007-09-30 03:56
        四、送别诗作成の时期

        送别诗作成の场所を越州とすれば、それと関连する问题として、作成の时期が问われるのである。日本思想大系本『空海』(岩波书店)に付した略年表を调べると、元和元(八〇六)年「四月、越州に至り、内外の経书の搜集に努める」とある。これはおそらく『请越州节度使求内外経书启』の日付によったと思われるが、はなはだ疑问である。

        朱千乗の诗に「去歳朝秦阙、今春赴海东」とあり、叙にも「去秋而来、今春而往」とみえる。「今春」とは元和元年(八〇六)の一月から三月にかけての时期をさすが、さらに叙の末尾に「元和元年春沽洗之月」と执笔の时期を明记している。

        「沽洗」は楽律八音の一つで、それがさらに歳时に対応される。『芸文类聚』は『礼记』をひいて、「正月律中太蔟、二月律中夹钟、三月律中沽洗(后略)」と述べているとおり、「沽洗」は三月の别称として用いられる。空海らは三月に越州に至り、しばらく滞在して四月に『请越州节度使求内外経书启』を越州の刺史に差しだしたということになる。

        以上によって、空海は元和元年(八〇六)三月に、越州で朱千乗らより送别诗を赠られたことが明らかになった。ただし、これら送别诗五首が果たして同じ场所または同じ时期に赠られたかどうか、明确な证拠はない。

        朱千乗と朱少瑞の二人は、越州という接点があり、诗题も似ているから、同时期の作品と见てよかろうが、昙清以下の三名はまったく同じ诗题であり、「雁塔帰殊域」など长安をほのめかす诗句さえあり、同时期の作品ではなかった可能性もある。

        しかし、これらの送别诗五首について、『高野大师御広伝』は「唐家诗人才子缁素等、属赋饯别送大师诗并制序云々」とし、さらに「出『雑英集』」と注记している。右の文脉によれば、朱千乗の诗序は自分の诗作の序だけでなく、空海と邂逅して交友した人々を代表して、事の縁起を述べる総序にあたることがわかる。そして、これらの送别诗が、もとより『雑英集』という散逸书に一括して収录されていることも明らかである。

        したがって、朱千乗と朱少瑞のあとに配列された昙清ら三人の作品が、越州に到着する前の长安で咏まれたことは、ちょっと考えにくい。はやり、朱千乗らと同时期に咏んだ诗であると考えたほうが妥当であろう。その傍证として、昙清の诗に「三春孤岛青」とある一句を挙げることができる。「三春」とは「春の三ヶ月」や「三年」の意味もあるが、ここでは「春の三つ目の月」つまり「三月」に该当するであろう。それは朱千乗の诗序にみえる「沽洗之月」とも符合する。また、朱少瑞の诗句「禅客祖州来、中华谒帝廻」と鸿渐の诗句「禅居一海隔、郷路祖州东」は表现から诗意まで似ていて、同じ席での作品と见たほうが妥当であろう。

         

        五、朱千乗と昙清について

         空海に送别诗を赠った唐人は、中国では有名な诗人とは言えず、いずれも『全唐诗』に作品を収录されていない。空海との交友関系によって、その名が今に伝わったのである。ただし、朱千乗と昙清については、その事迹をわずかながら辿ることができる。

        まず朱千乗の官职について、『高野大师御広伝』は「前试卫尉寺丞」としている。この肩书きと诗序の作成时期をのぞいて、朱千乗の伝记はすべて不明とされる。ただし、「前试卫尉寺丞」という官名は疑问视されることもあり、『弘法大师正伝』はそれを「前侍卫侍丞」と表记している。

        「卫尉寺丞」は唐代以来の官职で、『新唐书』(巻七五下・宰相世系表五下)の「乌氏」の条に「卫尉寺丞」の官歴があり、また『旧五代史』(巻四二・唐书十八)の长兴二年(九三一)条にも「刑部员外郎裴选责授卫尉寺丞」とみえる。

        「试」は唐宋官制のひとつで、唐制では正式な任命はないものの、ある官职についているのを「试」と称する。宋制では、実际の官阶より二等低く任官するのを「试」という。以上のように、『高野大师御広伝』の记录に间违いはなく、「前」とあるから、朱千乗は元和元年(八〇六)三月より以前に「卫尉寺丞」を任官した経歴を持っていた。

        次に、昙清について、『弘法大师年谱』は「清字、『正伝』作靖。昙清见『宋高僧伝』、元和年间人」と头注している。この诗を取りあげた中国の诸书は、おそらく『弘法大师年谱』の头注に気づかず、『宋高僧伝』を调べなかったらしい。たとえば、杨知秋氏は「昙清は昙靖にも作り、唐代の僧侣」、13孙东临氏は「昙清は唐の贞元前后の僧侣」、14张歩云氏は作者を「昙靖」として「中唐の人、経歴と事迹は不详である」と、それぞれ述べている。15

        『宋高僧伝』(巻十五)に「唐迪岳寺昙清伝」があり、「未详何许人也」から始まって昙清の僧侣としての事迹が述べられている。それによれば、昙清は初め呉北院の道恒に师事し、省躬と亲しく交游していたが、のちに南岳にとどまって弟子を教え、元和年间は阆州(今の四川省阆中県あたり)の龙兴寺にいた名僧の义嵩と论争を引き起こし、朝廷は昙清の学说を正しいと判定したという。

        また同书の「唐呉郡双林寺志鸿伝」には、昙清と省躬の交游関系に言及した记述があり、昙清が江南の志鸿とも交游していたことを示唆する。ちなみに、空海への送别诗を见ると、昙清につづいて「鸿渐」なる人物の诗が载せられている。鸿渐は「大唐沙门」と名のり、诗题を「同前」としているから、昙清と同题で作诗し、両者が近い関系にあることを推测させる。鸿渐と志鸿は同一人物なのかどうか、今后さらに僧伝などを调べる必要があろう


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        4楼2007-09-30 03:56
          六、朱千乗の佚诗について

          朱千乗は「卫尉寺丞」という武官の経歴を持っていたが、元和元年(八〇六)三月ころ、すでに退官して故郷の越州に帰っていたらしい。当时では决して有名な文人ではなかったが、诗文の道に精进しているようである。考えてみれば、科挙试験を通して抜擢される文武官吏は、一通りの教养は具えていたはずで、朱千乗はなかでも作诗に热心なほうであろう。

          彼の诗について、杨知秋氏は前记の送别诗をあげて「その诗、现存するのは『弘法大师正伝』に収める一首のみ。ほかに、诗二句が『全唐诗』にみえる」と述べている。16これは明らかに间违いである。朱千乗は『全唐诗』には登场していないが、市河寛斎(河世宁)の编修した『全唐诗逸』には「锦缆扁舟花岸静、玉壶春酒管弦清」とある联句を収められている。

          『全唐诗逸』はさらに『性霊集』巻四に収める弘仁三年(八一二)の空海の『献雑文表』目录によって、「延暦中、空海帰自唐、表上所賷书籍、中有『朱千乗诗』一巻」と述べている。『朱千乗诗』は现存しないが、日本で见つかった唐诗集には、前记の送别诗以外にも朱千乗の作品がいくつか伝えられている。

          そのひとつは、空海笔と伝えられる『新撰类林抄』の写本である。国宝と指定されている京都国立博物馆の蔵本によれば、巻头に「新撰类林抄巻第四 第三帙上/春 闲散上」とあり、唐诗四十首(ほかにも「南院切」と称される逸文あり)のうち、朱千乗の诗二首が収められている。原文は判読しにくい草书体で书かれているが、ここでは小川环树氏の解読にしたがって、作品を以下に掲げる。17(小川氏が疑问视する文字には、下线を引いた。また参考までに括弧内に直訳を付し、意味の通じないところはそのままにした。)

          (6)山荘早春连雨即事

                      朱千乗

          崇朝竟日雨★々(崇朝は终日雨が降りつづけ)

          万物萌牙春水灾(万物は芽生え春に水灾起る)

          白屋世情軽席戸(白屋の世情は席の戸を軽く)

          青山老大厌莓苔(青山の老大は莓の苔を厌う)

          常时杨柳烟中绽(常时なら杨柳は烟中に绽び)

          今歳花枝雪未开(今歳花枝は雪に未だ开かず)

          节往始知阳気晩(节往始めて阳気晩きを知り)

          和风不惜后亭梅(和风は后亭の梅を惜しまず)

          (7)早春霁后山荘即事

                      朱千乗

          挿槿未成篱(槿挿して未だ篱を成さず)

          啼莺早已知(啼く莺は早くも已に知り)

          日长春霁后(日长きは春霁の后になり)

          风暖柳烟宜(风暖かきは柳の烟も宜し)

          席戸门斜掩(席の戸は门を斜めに掩い)

          渔舟钓直垂(渔の舟は钓を直に垂らす)

          久将松竹比(久しく松竹を将って比し)

          宁惧歳寒移(宁ろ歳寒の移ろいを惧る)

          上薬幽前圃(上薬は前の圃を幽くして)

          繁花压小枝(繁花は小さい枝を压せり)

          素琴延翫月(素琴を延ぶるに月を翫び)

          清渭酌临池(清渭を酌むは池に临めり)

          守道安贫老(道を守るに贫老に安じて)

          専経数欲奇(経を専らにし欲奇を数う)

          若为裁二鬓(若し二鬓を裁ると为せば)

          羞向镜中窥(镜中に向いて窥くを羞ず)

           もうひとつは、新出の伏见宫旧蔵『雑抄』(巻十四)である。18笔者は今年の三月、国文学研究资料馆の松野阳一馆长にしたがって、现物を调査することができた。実见によれば、巻头に「雑抄巻第十四/曲下」と题し、唐人の楽赋诗类三十六首(うち断片しか抄出しないものあり)を収めている。朱千乗の一首は、他に见られず、新出の唐代佚诗に数えられよう。

          (8)长门词

                      朱千乗

          雪凌梅枝御柳风(雪梅枝を凌ぎて柳风を御し)

          春莺何啭妾愁中(春莺は何ぞ妾の愁中に啭る)


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          5楼2007-09-30 03:57

            君王宠爱偏前殿(君王の宠爱は前殿に偏りて)

            不许长门音信通(长门に音信通ずるを许さず)

             朱千乗の伝记や作品が、中国の歴史书や诗文集などに见出せないのに、『新撰类林抄』や『雑抄』のなかでは、李白・王维・王昌齢・张九齢・崔国辅・令狐楚らの名诗人に伍して登场しているのは、これらの诗集は唐人の编纂ではなく、日本人の手になったものと考えさせる。朱千乗の作品は、空海が持ち帰った『朱千乗诗』一巻から抄出したものと推测される。

            そして、中国では无名の诗人朱千乗は、空海との邂逅で、その作品が海をわたって、日本の文学に影响を与えたとは、おそらく本人も予想できなかったことだろう。その证拠のひとつは、大江维时の著わした『千载佳句』に、朱千乗の联句「锦缆扁舟花岸静、玉壶春酒管弦清」を采录したことである。

            小川环树氏は右の联句を『新撰类林抄』から采ったと推定しているが、この联句も平安后期の书写とされる『雑抄』所収の朱千乗诗も、现存の『新撰类林抄』には见られず、直接に空海将来の『朱千乗诗』から抄出した可能性も否定できない。

             

            七、唐诗に咏まれた空海像

             前述のように、马総と胡伯崇の赠答诗および朱千乗らの送别诗に咏まれた空海像について、すでに论じたことがあるので、19ここでは朱少瑞ら四人の作品を解読しながら、唐人のイメージする空海像および日本像を考察してみたい。

             まず、朱少瑞の『送空海上人朝谒后帰日本国』を见てみよう。第一联「禅客祖州来、中华谒帝帰」は入唐して帰国することを述べているが、「祖州」は正しくは「祖洲」、东方朔の『十洲记』によれば、东海中にあり、その地に「不死之草」があるとされ、ここでは日本の别称。第二联「腾空犹振锡、过海素浮杯」とは渡海中の様子、「过海」は鉴真のことを「过海大和尚」と称するように、中国から东シナ海を渡ることに多く用いられる。第三联「仏法逢人授、天书到国开」は帰国后の空海を想像しているが、「仏法は人に逢えば授く」は空海の宗教家としての精进ぶりを称える。ちなみに「天书」は帝王の诏书、遣唐使の国书に対して授けたものと思われる。

             次に、昙清の『奉送日本国使空海上人橘秀才朝献后却还去』に注目すると、诗题に「橘秀才」とあり、送别の宴には留学生の橘逸势が同席していたことがわかる。第一联「异国桑门客、乗坏望斗星」は入唐のこと、第二联「来朝唐天子、帰訳竺乾経」は唐帝に谒见し、梵语の仏典を捜し求めて帰国后に翻訳しようとする留学生活を述べている。第三联「万里洪涛白、三春孤岛青」は越州における情况、第四联「到宫方奏対、図像到王庭」は帰国后の様子を咏っている。この诗で注目すべきは、留学中に梵语の仏典を搜集したこと、中国で描かれた肖像を持ち帰ったことであろう。中国では、古くから外国の使节を画像に描きとめて、天子の威徳があまねく四方におよんでいることを賛えるならわしがあった。とくに威风堂々として礼仪正しい外国使节に対して、その肖像画を二幅こしらえて、一幅を宫中に保存し、もう一幅を本人に持ち帰らせていたらしい。遣唐使のなかで、その肖像を描かれたのは藤原清河らの大使や副使に限られているようだが、空海が「図像」を持ち帰ったということは、唐朝における地位の高さを示すものと言えよう。

             さらに、昙清と同题で咏んだ鸿渐の诗に目を向けよう。この诗は入唐、留学、帰国という时间顺にはなっておらず、第一连「禅居一海隔、郷路祖州东」は空海の故国にふれ、第二联「到国宣周礼、朝天得僧风」は入唐して仏教を学び、帰国して儒教を広めるということを意味し、第三联「山冥鱼梵远、日正蜃楼空」は帰国した空海の生活を想像し、第四联「人至非徐福、何由寄信通」は惜别の想いを伝えている。第二联は仏教と儒教に通じる空海の博学ぶりを称え、また第四联は徐福と日本を结びつけた最初の记录として、まさしく注目に値する。


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            6楼2007-09-30 03:57

               最后に、郑壬(申甫)による同题の作品を検讨しよう。第一联「承化来中国、朝天是外臣」は入唐のこと、「外臣」とは唐王朝の册封を受けた周辺民族に対する呼称で、遣唐使の性质を示唆する。第二联「异方谁作侣、孤屿自为隣」は异民族のなかでは希有の才能を持つ空海を称える。第三联「雁塔帰殊域、鲸波渉巨津」は帰国のことにふれ、第四联「他年続僧史、更载一贤人」は空海がその名を青史に垂らすことになるだろうと缔めくくっている。

               以上の四诗から见れば、唐人の目に映った空海像は、东の端からやってきた仏教を学ぶ留学僧よりも、内外の教养を备え、唐の文人诗客に伍して逊色を见せない、东アジアに通用する文化人の色彩を浓厚に帯びていると言わざるをえない。空海によって、唐人は徐福のことを思い浮かべ、日本文化の惊异な発展に惊きを覚え、日本との心理的な距离をいっそう缩めたことになったに违いない。



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              1 王勇:『唐诗に咏まれた空海像』、『国文学解釈と鉴赏』5月号特集「弘法大师空海」、至文堂2001年5月。

              2 『弘法大师全集』(首巻)所収、同朋舎一九七八年十一月复刊版。

              3 诗题の「直」と「従」は、傍注に従って、それぞれ「贡」と「帰」に改める。

              4 「建化」は『弘法大师正伝』に従って「远化」とすべし。「玄関护法宗」の「宗」が「文字冠儒宗」と押韵字を同じくしているため、傍注に従って「崇」とするのも考えられる。

              5 「腾空犹弥锡」の「弥」は、傍注に従って「振」とすべし。「帰程数万里」の「数」は傍注に「三」とあるが、両方とも通じる。

              6 诗题の末字「在」について、『弘法大师年谱』(『真言宗全书』)巻四は「还下一本有在字、或作在大唐」と考异し、「在」の下に「大唐」の二字が脱けている可能性を指摘している。ただし、「在」は「去」の字体に似ているから、「去」の误写かもしれない。

              7 「来朝僧天子」の「僧」は、傍注の「唐」に従う。「帰訳竺乾経」の「経」、「円像到王庭」の「王」について、傍注はそれぞれ「程」と「天」を示しているが、従いがたい。「竺乾」はインドの别称、「竺乾経」は「仏経」の意。「王庭」は王宫の意、「天庭」だと唐の皇宫を指すことになり、帰国を咏む诗意と龃龉する。ちなみに「円像到王庭」の「円」は「図」の误写。また「到」は前句の「到」と重なり、「列」の误字かもしれない。

              8 「崇鱼梵远日、正蜃楼□空」の「崇鱼」と「正」について、傍注は「山冥」と「日正」の考异を示しているが、「山冥梵远日、日正蜃楼空」となってしまう。おそらく「山冥」を「崇」の一字に见误り、足りない一字を「日」で补い、次句に空字が生じたと推察される。正しくは「山冥鱼梵远、日正蜃楼空」とすべし。

              9 「郑壬字」の「字」は、傍注に「孚」とあるが、误りであろう。郑は姓、壬は名、申甫は字ならば、「郑壬 字申甫」と表记すべし。

              10 「异方谁仰侣」の「方」と「仰」は、傍注に「才」、「作」とある。「异方」は「孤屿」と対をなし、正しい。「仰」は「作」のほうが増しであろう。

              11 「勾践相遇」の「遇」は、傍注に「过」とあるが、采らない。「沽洗之月」は三月の别称、傍注が「沽」を「姑」とするのは间违いである。

              12 谢海平著『唐代诗人与在华外国人之文字交』、(台湾)文史哲出版社一九八一年六月版、八八~八九页。

              13 杨知秋著『歴代中日友谊诗选』、(北京)书目文献出版社一九八六年九月版、四二页。

              14 孙东临ほか著『中日交往汉诗选注』、(审阳)春风文芸出版社一九八八年十月版、三十页。

              15 张歩云著『唐代中日往来诗辑注』、(西安)陕西人民出版社一九八四年十二月版、五七页。

              16 杨知秋著『歴代中日友谊诗选』、(北京)书目文献出版社一九八六年九月版、三八页。

              17 小川环树「『新撰类林抄』校読记」、『小川环树著作集』(第二巻)所収、筑摩书房一九九七年二月版、四二一~四三四页。

              18 住吉朋彦:『伏见宫旧蔵「雑抄」巻十四』、『书陵部纪要』★★。

              19 王勇:『唐诗に咏まれた空海像』、『国文学解釈と鉴赏』5月号特集「弘法大师空海」、至文堂2001年5月


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              7楼2007-09-30 03:57
                浙江大学日本文化研究所
                http://www.ch.zju.edu.cn/rwxy/rbs/
                http://www.ch.zju.edu.cn/rwxy/rbs/


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                8楼2007-09-30 03:59