そして、今夜、わたしはまたお社に向かいます。 あしたからの神山高校文化祭。わたしたち、神山高校の多彩な文科系部活の一つ「古典部」は、とても困った状况にあるのです。状况を打开する方法は见えてきません。全力を尽くすつもりではありますけれど……、幸运も、必要になりそうです。 お赛銭《さいせん》箱に百円玉を投げ込み、月明かりだけが頼りの境内で、わたしは両の手を合わせ目を闭じて、古典部の皆さんを思い浮かべます。 伊原摩耶花《いばらまやか》さん。福部里志《ふくべさとし》さん。折木奉太郎《おれきほうたろう》さん。 摩耶花さんはよく眠れているでしょうか。 いまの古典部の苦境を、摩耶花さんは自分の责任だと思い込んでいます。本当は、そうではないのに。わたしは、摩耶花さんの手际のよさに、すっかり甘えていたのです。もし摩耶花さんの作业にわたしが积极的に手を贷していたなら、今回の事态は防げたでしょう。その意味では、责任はわたしにもあります。 福部さんはよく眠れているでしょうか。 福部さんの快楽主义的な言动がどこまで本心なのか、わたしは疑わしく思っています。少なくともそれは、利己主义とは必ずしも一致してはいないはずです。摩耶花さんが心を痛めているのに笑って见ないふりをするとは、思えません。 折木さんはよく眠れているでしょうか。 ……眠れているでしょうね。折木さんはそうでなくては、かえって不安になります。 折木さんが时折见せる、物事の裏侧を见抜いてしまう锐さに、わたしはいつも大変に感心します。感动とさえ言ってもいいかもしれません。ですが普段の折木さんは、その、なんといいますか、とても腰の重いひとです。頼りになるのかならないのか、判断が难しいのです。
皆さんの姿を胸に、わたしは祈りを捧《ささ》げます。 あしたからの三日间、わたしたちに幸运がありますように。あの「山」を、どうか乗り越えられますように。 目を开いたわたしは、拭《ぬぐ》いきれない不安につつかれて、お财布からもう五十円を取り出しました。